開拓の歴史
星野 移民の歴史 黎明編   星野 移民の歴史 発展編
星野の歴史は石垣島北部の移民の歴史でもあります。 石垣島では移民の先頭を切って昭和25年3月16日に沖縄本島の大宜味村から新天地を求めて入植しました。それを頼って毎年のように次々と各部落が移民してきました。
戦争で焼土と化した沖縄、戦禍が収まると人々は各自のふるさとに引き揚げましたが、帰るところのない難民たちがまだ多数残っており、復員軍人や疎開者、また南方諸島からの出稼ぎ移民が続々と帰ってきました。
もともと土地に恵まれない大宜味村では国内・海外の出稼ぎ移民からの送金によって生活を維持してきた移民経済の村だったので、戦争によって多くの犠牲者を出し、財産をなくし強制送還させられてきた移民の人たちは親類縁者から借りたわずかな山地にイモを植え、また米軍からの配給物資で細々と暮らしていました。

アメリカ軍、民政府共同による八重山開発計画が発表され石垣島と西表島に3万人を移住させ、土地と、農具、家畜等を与え、当初は食料の世話もする、その前にマラリヤの撲滅も行う計画というものでした。
八重山で「移民の父」とまで言われた山口忠次郎氏(写真左)は、この記事を見て、八重山移民を決意し希望者を募り100戸余りの応募者を得ました。
しかしアメリカ側の意向を確かめる段になって、講和会議締結まで移住問題は実施できない。この問題はしばらく待って欲しいという回答があり、政府援助による移住の希望は、完全に断ち切られてしまいました。こうなったら自由移民として行こうという皆の気持ちは固く強かったので早速、行動を開始しました。

八重山側の了解や、入植地選定のための現地折衝班が編制され、山口忠次郎、山城忠助、山城忠次郎の三氏が村代表として派遣されることになりました。100戸を越えた移住希望者も16戸となりこの人々により先遣隊が編成されました。
1950年3月8日、多くの人が見守る中、大宜味を出発しましたが、皆、着のみ着のままで、荷物らしい荷物はなく目に見える華やかこそなかったけれど、心だけは希望と情熱に燃えていました。

2000年当時でも、先遣隊とその家族は元気で頑張っています。
これが星野のすごいところでしょう。

1980年当時の先遣隊の方々

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